不安を乗り越え電車通勤へ 一人で外出する力を育む練習記録

「ひとりで電車に乗る」と聞くだけで、「どうしよう」と不安になることがあります。
切符は買えるかな。乗る電車を間違えないかな。途中で困ったら誰に聞けばいいんだろう。頭では「練習すれば大丈夫」と分かっていても、実際に駅へ向かう朝は、やっぱり緊張します。
今回は、町外から通う利用者のAさんが、送迎車に頼らず電車で通勤するために取り組んだ練習の記録です。Aさんは、初めての場所や予定変更が苦手で、ひとりでの外出にも強い不安がありました。
でも、スタッフと一緒に準備を重ねる中で、少しずつ「自分でできた」が増えていきました。ここでは、その日の流れや支援の工夫、そして電車移動を通して育まれた力について紹介します。
送迎に頼らない通勤を目指した理由
Aさんは町外から通っているため、これまでは送迎車を利用していました。送迎は安心できる移動手段です。乗る場所も時間も決まっていて、困ったときにはすぐ職員に頼れます。
ただ、生活の幅を広げることを考えると、公共交通機関を使える力は大きな意味を持ちます。
電車に乗れるようになると、通勤だけでなく、買い物、通院、余暇活動、友人との約束など、行ける場所が増えます。移動の選択肢が増えることは、日々の暮らしに自分で選ぶ場面が増えることでもあります。
Aさんにとっても、「いつかは自分で通えるようになりたい」という気持ちはありました。でも、その気持ちと同じくらい、「失敗したらどうしよう」という不安もありました。
そこで、いきなり完全なひとり通勤を始めるのではなく、段階を分けて練習することにしました。
当日はスタッフも早めに駅へ向かいました
練習当日、スタッフはいつもより早く駅へ向かいました。
Aさんが到着する前に、駅の様子を確認するためです。改札の混み具合、券売機の位置、ホームまでの動線、駅員さんがいる場所などを事前に見ておくと、声かけが落ち着いてできます。
もちろん、スタッフもまったく緊張していなかったわけではありません。
Aさんが不安そうな表情を見せたとき、どこまで手伝うか。本人が考える時間をどれくらい待つか。もし電車が遅れたらどう対応するか。頭の中では、いくつもの場面を想定していました。
支援する側にも緊張はあります。大切な練習だからこそ、「成功体験にしてあげたい」と思います。でも、全部を先回りしてしまうと、Aさんが自分で判断する機会が減ってしまいます。
だからこの日は、見守りの距離を意識しました。
困ったらすぐ助ける。でも、できそうなところは本人に任せる。
そのバランスを探しながらのスタートでした。
切符を買うところから練習は始まります

Aさんが駅に到着すると、まずは今日の流れを一緒に確認しました。
持ち物、行き先、乗る電車、降りる駅、到着後の動き。紙に書いたルート表を見ながら、一つずつ声に出して確認しました。
次は切符の購入です。
券売機の前に立つと、Aさんの表情が少し硬くなりました。後ろに人が並ぶかもしれない。ボタンを押し間違えるかもしれない。そう思うと、手が止まってしまいます。
スタッフはすぐに操作を代わるのではなく、横で短く声をかけました。
行き先の金額を見つける
画面の同じ金額のボタンを押す
お金を入れる
切符とおつりを取る
一つの動作ごとに区切ると、Aさんも少し落ち着いて取り組めました。途中で迷う場面もありましたが、スタッフが「今どこまでできたか」を一緒に確認すると、また手を動かせました。
切符を手にしたとき、Aさんは小さく息を吐きました。大きな声で喜ぶ感じではありません。けれど、その表情には「買えた」という実感がありました。

こういう小さな達成感が、次の行動を支えてくれます。
駅員さんに確認する練習も大事です
切符を買った後は、駅員さんに乗車する電車を確認しました。
ここも大切なポイントです。ひとりで外出するとき、困ったことをすべて自分だけで解決する必要はありません。分からないときに、適切な相手に聞く力も自立の一部です。
Aさんは最初、駅員さんに話しかけることをためらっていました。知らない人に声をかけるのは勇気がいります。言葉が出てこなくなることもあります。
そこで、事前に短い言い方を練習しました。
「この切符で、〇〇駅行きの電車に乗れますか」
この一文だけで十分です。
駅員さんは、乗るホームと発車時刻を教えてくれました。Aさんはスタッフと一緒に表示板を見上げ、教えてもらった内容と合っているか確認しました。
この確認があると、不安が少し下がります。自分の思い込みだけで動くのではなく、必要な場面で人に聞いて確かめる。これは電車通勤だけでなく、生活のいろいろな場面で役に立つ力です。
ホームでは不安と期待が混ざっていました
ホームに着くと、Aさんは電車が来る方向を何度も見ていました。
「これで合ってるかな」
そうつぶやくAさんに、スタッフはルート表と駅の表示を一緒に見せました。確認する材料があると、不安な気持ちに飲み込まれにくくなります。
電車が近づいてくる音が聞こえると、Aさんの肩に少し力が入りました。職員もそばで見守りながら、内心ではどきどきしていました。
車窓の景色が緊張をやわらげてくれました
走り出してしばらくすると、窓の外に海や川、遠くの山が見えてきました。普段見慣れている景色とは違い気分は旅気分みたいと職員が声を掛けます。
Aさんは最初、駅名のアナウンスに集中していました。でも、少しずつ外の景色に目を向ける余裕が出てきました。
改めて、職員が声をかけると、Aさんも窓の外を見ながらうなずきました。
電車移動には、ただ目的地へ向かうだけではない良さがあります。窓から見える景色、駅ごとに変わる人の流れ、線路沿いの建物。普段は送迎車の中で通り過ぎていた景色も、電車から見ると違って感じられます。
Aさんにとっても、この時間は緊張だけではありませんでした。景色を楽しむ気持ちが少し生まれたことで、「電車は怖いもの」という印象が少しやわらいだようでした。
不安な経験の中に、楽しい要素が一つでもあると、次の挑戦につながりやすくなります。
到着後の確認までが練習です
目的の駅に着くと、Aさんは職員と一緒に降りました。
ここで終わりではありません。改札を出る、周囲の目印を確認する、事業所までの道を歩く。この一連の流れまで含めて、通勤練習です。
駅を出た後、Aさんに「次はどちらに進みますか」と聞くと、少し考えてから方向を指さしました。スタッフがすぐに答えを出さず、本人が思い出す時間を持てたことも大きなポイントです。
道中では、横断歩道の確認や歩く位置も一緒に見ました。安全に移動するためには、電車に乗る力だけでなく、駅の外で落ち着いて行動する力も必要です。
事業所に着いたとき、Aさんは少し疲れた様子でした。それでも、表情は出発前より明るく見えました。
「ひとりでも行けるかもしれない」
そんな気持ちが、少し芽生えたように感じました。
自立はひとりで全部やることではありません
電車通勤の練習というと、「最終的には完全にひとりでできるようにする」と考えがちです。もちろん、それも大切な目標です。
でも、自立は「誰にも頼らないこと」だけではありません。
分からないときに駅員さんへ聞く。予定が変わったときに連絡する。不安になったら深呼吸して、確認表を見る。必要な助けを自分から求めることも、立派な自立です。
Aさんの練習で育まれた力は、いくつもあります。
予定を見て行動する力
券売機を使う力
駅員さんに質問する力
周囲の表示を確認する力
不安な気持ちを言葉にする力
公共の場で落ち着いて過ごす力
これらは、通勤だけに使う力ではありません。日常生活の中で、人と関わりながら暮らしていくための土台になります。
特に、駅員さんに確認した経験は、社会性を育てる大切な場面でした。知らない人に丁寧に尋ね、返事を聞き、必要な情報を受け取る。このやり取りは、地域の中で生活する力そのものです。
次の練習につなげるために職員が見たこと
練習後、職員はAさんの様子を振り返りました。
どの場面で不安が強かったか。どの声かけが安心につながったか。本人が自分でできたことは何か。次回はどこを少し減らして見守れるか。
支援では、「できなかったこと」だけを見ると、次の練習が重たくなってしまいます。むしろ、できた場面を丁寧に見つけることが大切と考えています。
今回のAさんの場合、切符の購入スムーズに自分の手で最後まで操作できました。駅員さんへの確認も、最初は小さな声でしたが、自分から言葉を出せました。車内では景色を楽しむ余裕もありました。
これは大きな前進です!
日々の小さな挑戦が生活の幅を広げます
Aさんの電車通勤練習は、ただ移動方法を変えるための取り組みではありませんでした。
不安を感じながらも駅へ行く。切符を買う。人に聞く。電車に乗る。景色を見る。目的地に着く。どれも小さな行動ですが、一つひとつが「自分で生活する力」につながっています。
はじめから平気な顔でできる必要はありません。緊張してもいいし、スタッフも一緒にどきどきしていい。大事なのは、不安を否定せず、準備と見守りの中で経験を積むことです。
送迎車がある安心も大切です。けれど、公共交通機関を使えるようになると、本人の世界はぐっと広がります。行きたい場所に行く力、困ったときに人へ聞く力、予定を自分で確認する力。そうした力は、毎日の暮らしを少し自由にしてくれます。
一歩ずつで大丈夫です。
その一歩が、いつか「自分で行けた」という大きな自信になります。
就労支援事業所うしおでは、一生懸命にこのような支援も利用者さんと一緒に行っています。



